観光を楽しむことが難しくなったのは、初めて留学したときのことでした。学校のあったニューヨークで週末がくるたびに有名スポットを回っていたところ、ふと、何を見ても「ああ、これがガイドのあのページにのっていたやつだな」という以上の感想がないことに気が付いてしまったのです。呪わしき教養の欠如よ。
もちろん、訪れたという事実、思い出は残ります。しかし、実際に訪れることによって広がる見聞とは一体何なのでしょうか。少なくとも、当時の私にはよくわかりませんでした。自分の内面に入り込んで理解を深めること、各種の古典に触れること、他人との関わりのなかで自らの偏りを是正していくこと。そういった行為に比べれば、有名スポットの観光など単なるスタンプラリーにすぎないように感じられたのです。
観光は、自らの心が動かされるものに向かっていく方が楽しいのではないか。私はそう思います。
私にとっては、自由の女神像よりも、そのパフォーマーが油断してマスクを脱いでいる姿の方が心が動かされますし、
セントジョンディバイン大聖堂そのものよりも、その裏庭の小さな花壇の方が心が安らぐのです。
で、人生2度めの海外生活を送ったイタリアで私の心を動かしたのが、この町。モンセリーチェでした。
私が住んでいたヴェネチアはイタリアでも北東部にあります。フィレンツェでもローマでも、どこか有名なところに出かけようと思えば、西方向の電車に乗らなければなりません。この町は、ヴェネチアから西に2駅ほど行ったところにありました。停車中の電車の窓から見える山、というよりはそそり立つ崖がいつも印象的で、一緒に出かける連中が旅の目的地に期待をふくらませるなか、私は1人、この町に対する思いを募らせていたものです。
駅から降りた風景はこんな感じでした。
そして、例の山を登ります。
上から見るとこんな感じになっています。
世界的に有名なものは、特にありません。穴場の情報を期待された方には申し訳ないのですが、観光としてはハズレの部類に入ってしまうでしょう。
ただ、取り立てて何もないとはいえ、まったく緑ばかりというほどの田舎でもありません。散歩を楽しむにはこれくらいがちょうど良い塩梅だと思ったものです。そして何より、あれを見なくちゃこれを見なくちゃと心を乱されることがありません。それが逆に、写真に残したいという気持ちを惹き起こすのでした。この安らかさを忘れないために。
人からハズレと言われたって、有名な場所で写真を取れなくたって、別にいいじゃないですか。他人がもったいないと言うからなんだというのか。
コンサートでMCの時間が長いと評判の松山千春さんだって言っていたそうじゃないですか。「歌が聞きたければCDがあるだろう」って。なんか微妙に違う気がしますが。