哲学への興味を持ち始めたのは、いつのことだったか。一応「理系」として育ってきた僕は、学校教育の中で哲学に触れることはなかった。たぶん、大学生のときに読んだ中島義道さんの著作が最初だったと思う。

今も本棚に残っている中島さんの本は、『哲学の道場』だ。奥付の出版年を見ると、僕が就職してから2年目の年になっている。あまりにも昔のことなので、なぜこの本を買ったのかよく覚えていないが、仕事を続けるべきか悩んでいた頃だから、何かを変えるためのヒントを得ようと思ったのかもしれない。

哲学とは、「考えることを、考えること」。まったく触れたことがない「知の世界」が広がる予感に、心を惹かれたのを覚えている。

ただ、そこから学びを広げることができなかった。白状すると、手元の『哲学の道場』は頭から三分の一くらいの位置にしおりが挟まったままになっている。つまり、ここで挫折したのである。中島さんのエッセイは面白いのだけど、哲学そのものの解説は難しくて歯が立たなかった。何とか理解しようと頑張るも、すぐに頭がショートする。別の道を探ろうとしても、哲学という広大な学問分野のなかで、どこに向かえばよいのかわからない。結局、僕の興味は立ち消えになってしまった。

そして時が流れて3年前。田舎で暮らしていた僕は、ひょんなことから地元で「哲学カフェ」なるイベントが開催されることを知った。

哲学カフェ(てつがくカフェ、仏: café philosophique)は哲学的な議論(各哲学カフェでは「対話」や「話し合い」と称することが多い)をするための草の根の公開討論会。
(出典:Wikipedia)

その哲学カフェは、落語の噺を題材にして「気軽に哲学しましょう」という、入門的なイベントだった。テキストが落語なら大丈夫かもしれないと、意を決して参加してみることにした。参加者は6人ほど。カフェの一室で、こぢんまりと語り合った。なかなか思うように話せなかったが、「自分でも哲学を語れるかもしれない」という勇気がわいた。

哲学を語るためには、哲学を形作る「言葉」をひとつひとつ理解することが重要であり、その言葉を積み上げることによって、抽象的な概念の理解に至る……そう思い込んでいた僕にとって、「対話によって哲学できる」というのは目からうろこの発見だった。難しい言葉を使わなくても、日常の言葉で哲学について考えることができる。知の深淵を探求することはできなくても、おずおずと深淵に近付いて、ちらりとのぞき込むことはできる。僕にはそれで十分だ。

翌年、東京に戻った僕は、定期的に哲学カフェに参加するようになった。さすが東京だけあり、有名大学の哲学科を出た本格派の人も参加していて、はじめの頃は緊張した。びびりながらも、参加者の皆さんのウェルカムな雰囲気の中、なんとか自分の言いたいことを伝えられるようになった(ただ、頑張って難しいことを言おうとすると失敗する……才気あふれる人たちは、うろ覚えの知識に基づく発言を見逃してくれないのだ)。

残念ながら、この哲学カフェは主催者の都合で終了となってしまったが、今はそこから派生した哲学カフェに参加している(現在は新型コロナの影響で休止中)。いつも感じるのは、皆さんの頭脳と個性の豊かさだ。哲学を語る人たち、ひとりひとりの頭の中に宇宙がある感じがする。毎回、刺激を受けている。

哲学に関する本も、少しずつ読むようになった。たとえば、こちらの本。

『不道徳的倫理学講義』古田徹也 著(筑摩書房)

この本は、タイトルの面白さに惹かれて購入した。倫理学(哲学)の歴史において「運」がどのように扱われてきたのか、素人向けにわかりやすく書かれている。が、わかりやすいと言っても哲学の本。きちんと読むには頭をフル回転させる必要がある。通勤の電車の中、夜寝る前などの隙間時間に読み進めて、何とか最後まで読み通すことができた。理解が進むたびに、なるほど!と何度も膝を打ちながら読んでいたのだけど……読み終わると同時に、内容を全部忘れてしまった。哲学というのは、脳になかなか定着してくれない。

しかし、哲学の本を読むことには、1つ明らかな効能がある。言葉Aで言葉Bを定義し、さらに言葉Bで言葉Cを定義するような、構築的な文章に取り組み続けていると、「読む力」が鍛えられるのだ。多少難しい本でも、すらすら読めるようになる。翻訳にも、役立つかも?

最後に。この記事のタイトル「哲学の道」は、もちろん京都の有名な散歩道から取った。緑豊かな東山界隈の雰囲気と合わせて、大好きな道なのだけど、なぜか真冬と真夏しか歩いたことがない。いつか、春の桜、秋の紅葉の時期にも、歩いてみたい。