久しぶりにブログを担当いたします、川津です。最近は主にTwitterに雑草の写真をアップし続けるという奇行を(社長の温情により)継続していますが、これはこれでこだわりがあります……。
どんなこだわりかと言うと、何よりも「つまらない写真を撮らないこと」です。じゃああの写真は面白いのか?と聞かれるとこれは言葉に詰まりますが、せめて自分自身には面白いと思えるような写真を撮っていきたいということです。
言い換えれば、常に何かしらの驚きを織り込んだ写真を作りたい。実際に見たときの驚きに近いものを再現したい。雑草の写真を撮っているのではなく、おっと思ったその感情を撮って、再生可能にする試みであるとも言えます。
ここでミソなのが、肉眼で見る現実と、スマホのカメラ越しに見る現実は、どうやら別物らしいということです。たとえば、タンポポが咲いていた。綺麗だと思ってスマホで取る。しかし後から見返すと思ったよりショボい。あれ、こんなだったっけ、と思う現象がまさにこのズレを示しています。
違うんです。もし、その綺麗だと思ったタンポポを、記録ではなく記憶に残したいなら、その綺麗だと思った感情をこそ残さなければならない。そのためには、見たままではなく、心象風景の方を再現する必要があるのだと自分は考えています。
たとえば自分の場合、タンポポの花はよく接写で取ります。画面いっぱいが黄色になります。なぜかというと、道端を歩いていてタンポポの花が目についたとき、だいたい私にはその黄色い丸い花しか見えていないからです。そこがコンビニ脇だろうが、道路わきだろうが、側溝のキワだろうが、心象風景にはタンポポしか映っていない。なので私は「タンポポしか映っていない」心象風景を写真で再現します。そうすれば、その写真を見さえすれば、後からでもそのときの気分が再現可能。写真っていいなあと思うわけです。
あるいはたとえば、寂れた風景の中に咲くタンポポに心を動かされたなという場合は、風景込みで撮ればいいのです。それこそが撮り手の心象風景なのですから、当然のことと言えるでしょう。
なんとなく流し聞きしていたラジオで、「プロに聞く、スマホでの綺麗なイルミネーションの撮り方」みたいな話題が流れてきたことがあります。そのとき、写真家の人は「実際に見たよりもしっかり近づいて、下から見上げ気味に撮るとよい」とアドバイスしていました。
まったくその通りだと私は同意しました。
人は目の前の風景を見るとき、精神が体を離れてその風景に飛びこんで、マジマジとそのものを見上げているのかもしれません。花なり、イルミネーションなり。
(ちなみにいつもiPhone7で撮っています。)