こんばんは。このところほかの面々による真面目な投稿が続いており、私などが口を挟んで良いものかと思案しておりました次第ですが、庶務課の光留です。おそらく、これを読まれるみなさまにとっては、「テクノプロジャパンの」光留ですね。もちろん、会社では「庶務課の」光留です(厳密には「庶務課」ではありませんが)。
ところで、この「〇〇の」の部分。ときに、これに続く「△△です」の部分よりも、大きな存在感や意味を帯びてくるのではありませんでしょうか、というのが、今回の主題です。
かつて、忍空というアニメがありました。私は小さいころ、これを毎週見ていたのを記憶しています。細かなストーリーはさておくとして、その主人公といつも一緒にいるペンギンの名前を「ヒロユキ」と言いました。ペンギンに人間のような名前を付けていたのが面白かったのでしょう。母はその「ペンギンのヒロユキ」をたいそう気に入りました。その後、頭の中で何度も反芻するうちに「ペンギン=ヒロユキ」と図式が確立したのか、ある日のこと。家に遊びに来た同級生の「ひろゆき」君に向かって、お菓子を手渡しながら「ハイ、これはペンギンの分ね」と言い放つに至ったのでした。(ペンギンじゃない方の)ひろゆき君が我が家に来たのは、それが最後でした。
それからもう少し後のこと。母がパートで友人を作ってきたことがありました。「三宅さん」という女性でした。それ自体はいいのです。問題は、母が家で彼女の話をするときに、決まって「イボ痔の」という接頭語を付けたがることでした。「イボ痔の三宅が今日カステラを半分こしようっていうから楽しみにしてたら、上下半分に切って、ザラメの付いてる方だけ取ってっちゃったのよ」といったような話を、陰口じみた口調でもなく、あくまで楽しそうに聞かせるのです。このインパクトときたら。そんな話を頻繁に聞かされては、私のシナプスに「三宅=イボ痔」の連絡路ができてしまったとしても致し方ないというものではありませんか。ただ、私としては、それからの人生で何人か「三宅」さんとお会いする機会があり、そのいずれもが「自分との闘い」になったことは申し添えておきたいと思います。
しかし、考えてみると、会社を退職した後のサラリーマンの方々がただの人になってしまうというのは、嘘か真か、よく聞く話です。私も、いつかこの会社を辞めるようなことがあれば、ただの「光留さん」になってしまうのでしょうか。すると、組織に左右されない「コレ」という肩書があること。「私はコレだ」と言える何かがあること。それは、ひょっとすると、すごく幸せなことなのかもしれません。たとえそれが、ペンギンや、イボ痔であっても。
(※)「三宅」という苗字は仮のもので、実際には鈴木、佐藤、高橋、渡辺並みによく聞く苗字です。それがゆえにいっそう厄介です。