「体育会系」と「文化系」。

日本の学校で育ったならば、ほとんどの人がこのどちらかの分類に当てはめられることになる。

子供の頃から体力がなく、スポーツ全般に無関心だった僕も、おそらく文化系に属している(おそらくというのは、部活自体に参加しない「帰宅部」だったから)。

体育会系の方が概して日本社会では受けがよく、文化系は日陰の存在になりがちである。文化系の人がやっかみ半分で体育会系の悪口を言うのは、仕方がないことかもしれない。

僕自身、昔から体育会系の人たちにそれほど好感を持てないでいたが、大人になってから、その意識が変わる出来事があった。

僕が翻訳業界に入ったのは、二十代の後半だった。朝から夕方までPCと向き合う日々が続いた。運動の習慣がないから、相変わず引きこもり気味の怠惰な生活を送っていたが、数年経って三十代になると、体に異変が現れ始めた。腰痛から始まり、眼や耳も、けっこう深刻な症状に見舞われた。実際のところ、長時間のデスクワークによるストレスと運動不足が体をむしばんでいたのだ。

これは生活習慣を変えないと真剣にやばい。僕は思いきって、駅前のスポーツジムに入会した。

当初は「運動する」ということ自体が新鮮だったので、筋トレやトレッドミルが楽しかった。しかし、しばらくすると飽きてきた(筋肉がつきにくい体質なので達成感がなかった)。そこで、スカッシュを試してみることにした。たまたま、スカッシュコートがある施設だったのである。

始めてスカッシュラケットを握り、無料体験レッスンを受けてみた。30分後には汗だくになって疲労困憊し、筋肉やら関節やら全身が痛くなっていた(翌日から1週間、猛烈な筋肉痛が続いた)。しかし、楽しかった。なんだこれは、もっとやりたい!

今考えると、まともにボールを打つことすらできず空振りばかりだったのに、なぜそんなに気に入ったのかよくわからない。でも、筋トレやジョギングよりははるかに楽しく感じたのは確かだった。

スカッシュがどのような競技なのか、知らない人が多いと思うので説明してみる。

テニスと同じく2人でプレイする対戦型のラケット競技で(ルール上はダブルスもあるが非常にまれ)、四方を壁で囲まれたコート内で行うのが特徴。壁に弾かれたボールが内側に跳ね返ってくるので、テニスのようにボールが遠くに飛んでいってしまうことがなく、初心者でもラリーを楽しめる。逆に上級者同士だと、いつまでもラリーが続いてしまうので、相手からポイントを取るには正確なボールコントロールと戦略が要求される。

初心者以下のレベルからスタートして、飽きることなく練習を続けられたのは、この間口の広さと奥の深さのおかげだった。たぶん、スカッシュ以外の競技では無理だったと思う。

練習を続けるうちに、僕は自分の力を試し、もっと高みを目指したいと思うようになった。そこで始めたのが、試合に出場することだった。当時、東京のあちこちでスカッシュの小さな大会が開催されていて、初心者でも「新人戦」のカテゴリーで参加することができた。

いわゆる部活に縁がなかった僕にとって、それは人生で初めての体験だった。衝撃だったのは、スポーツ漫画の中の演出だと思っていたことが、現実に起こりうる、ということだった。

 

  • 緊張で実力を発揮できない

試合の1週間前くらいから、よく眠れなくなってくる。試合の時間が来てコートに入り、対戦相手と2人きりになると、表情がこわばり、吐き気がして、指先がしびれてくる。あれほどの緊張は、それまでの人生で感じたことがなかった。入社面接でもこんなに緊張しなかった。

 

  • メンタルコントロールが難しい

試合中にミスが出ると、自分の不甲斐なさにイライラしてくる。すると余計に力んでしまい、ますますミスが増える。失礼な対戦相手の態度にむかついても同じ。結果は自滅である。メンタルコントロール、つまり状況に左右されずに平静な心持ちを維持することは、恐ろしく困難なことだと実感した。

 

  • 負けると悔しさのあまり泣く

いや、泣きはしなかったけど……むちゃくちゃに悔しかった。負けた瞬間にラケットを放り投げたこともあった。

 

  • あきらめると本当に試合終了する

試合中に心のどこかで「これは負けそうだ」という考えが生まれると、必ず負ける。少しでも対戦相手を恐れてしまうと、もう負けが決まったも同然だった。逆に、スコアで負けていても不思議と負ける気がせず、逆転勝利したこともあった。

 

  • 声援が力になる

コートの中で孤独に戦っているとき、仲間たちの大きな声援が聞こえると、疲れ切った体に不思議な力がわいてきて、また動けるようになった。あれはまさに、ミラクルな体験だった。

 

学校のグラウンドで土まみれになって練習していた体育会系の人たちは、こんな鮮烈な経験をしていたのだ。今さらながら、自分もやっておけばよかったかなと(少しだけ)思う。大人になってからでも、あの濃厚な体験ができたのはよかった。

体育会系部活の経験は(理不尽な上下関係への適応性を高めること以外に)、心の成長に間違いなく役立つだろう。これからは、日本的な根性論や上下関係から脱却した、科学的で個人重視のスポーツ体験が若い世代にも広まっていって欲しいと思う。

僕は今でもスカッシュを細々と続けている。当時ほどの情熱はないし、試合に出るのもこりごりだが、その楽しさは変わらない。コロナ禍の中ではいろいろと制限もあるが(マスク着用が義務なので酸欠になりそう)、できる環境がある限り、続けていこうと思う。